年収2億円の家柄を捨て遊女と心中するなんて…蔦屋重三郎の時代に吉原を震撼させた旗本の大スキャンダル
2025年5月18日(日)8時15分 プレジデント社
歌川国貞画『艶紫娯拾余帖』(部分)※写真はイメージです - 出典=国際日本文化研究センター
出典=国際日本文化研究センター
歌川国貞画『艶紫娯拾余帖』(部分)※写真はイメージです - 出典=国際日本文化研究センター
■蔦重の生きた18世紀、遊女と客が心中する事件が起きていた
大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)においては吉原遊廓における遊女と客の様々な人間模様が描かれています。遊女うつせみ(小野花梨)と駆け落ちした浪人・小田新之助(井之脇海)。富豪として名を馳せ、高級遊女・瀬川(小芝風花)を大金でもって身請けした盲人の鳥山検校(市原隼人)など……。遊女と客の間には「金」が絡んでいるのですが、そうしたものを超えて、2人の間に愛情が芽生えることもありました。
ある遊女に熱を上げる客。そして遊女の方もその客に惹かれて段々と好きになって離れ難く思う。彼(客)を手放したくない一心で、起請文(誓約書)を書く遊女もおりました。夫婦になるとの起請文を書いて神仏に誓うのです。起請文で足りなければ遊女は自らの小指を切断して男へ送り付けることもあったようです。または自分の腕に「客の名+命」と入墨(いれずみ)したとのこと(客もまた遊女の名を入墨する)。自分の愛情が真であることを男(客)に知らしめたい遊女のいじらしい、壮絶な行為と言えるでしょうか。
■体を売る遊女と男の客の間に恋愛感情が芽生えることもあった
しかし時に遊女が送り付けた小指は自分のものではなく、死刑となった女囚のものだったということもあるようです(女囚の小指を買い取った)。また入墨も消えないものではなく、消せるような入墨を入れていた遊女もいたとのこと。遊女は男(客)の気を惹くために色々な「詐術」を用いることがあったということです。それは真実の愛ゆえなのか、苦界(遊女の世界)から脱出(身請)したい一心からだったのか筆者には分かりませんが、遊廓における遊女と客の関係性を示すものではあるでしょう。
遊女と客の間には場合によっては愛が芽生え、それはさまざまな形を成しましたが、その中でも究極の愛の形は「心中(しんじゅう)」かもしれません。女と男が相思相愛でありながら、諸事情で添い遂げることができなくなり、将来を悲観し最終的に共に死を選ぶ、それが心中(情死)です。
遊女とその客の心中は江戸時代初期の元禄時代(1688〜1704)頃から増えてきます。人形浄瑠璃・歌舞伎の作者・近松門左衛門(1653〜1725)はその作品(例えば『曽根崎心中』)の中で心中した男女を賛美したので、心中は時代を下るに従って増加していきます。
■近松門左衛門『曽根崎心中』などの影響で心中事件が“流行”
享保(きょうほ)年間(1716〜1736)に至って「流行」と形容される観を呈するのでした。心中が社会問題に発展したことにより、徳川幕府は対策を講じます。それが8代将軍・徳川吉宗の時でした。吉宗は享保7年(1722)、心中に関わる狂言や絵草子を禁止、それのみならず「心中法度」を制定し、心中に対し厳格な姿勢を示すのです。
まず、心中という用語自体を排除しようとします。それは「心中」という用語は「忠を2つに割って、上下の字を入れ替えると心中となるから怪しからん」ということのようですが、心中という言葉が流行し、心中が増加する中でそれを食い止めたいという想いの発露と言えるでしょうか。権力側は心中との言葉を排除しますが、新たな言葉を案出します。それが「相対死(あいたいじに)」でした。
「心中法度」は「不義にて相対死」した男女の「死骸取捨て」、「弔(葬式)をなすまじく候」とします。そして心中した一方が存命した場合はその人間を「下手人」(殺人犯)とし、双方が存命した時は「三日晒(さら)し、非人手下(非人の配下)」とするとしたのでした。以上、見てきたことで分かるように「心中法度」は心中を罪としたのです。「心中法度」の制定によって心中は減った面もありますが、当然なくなったわけではありません。男女の愛情は完全に法律でどうこうできる問題でもないということでしょう。
一陽斎豊国『霜釖曽根崎心中 天満屋おはつ・平野屋徳兵衛』、国立国会図書館デジタルコレクション
■年収2億超えの旗本、藤枝家の当主が遊女と情死した事件
江戸時代の心中の中で有名なものの1つが、大河ドラマの主人公・蔦屋(つたや)重三郎(じゅうざぶろう)(演・横浜流星)が絵師の喜多川歌麿(演・染谷将太)らと組んで本や浮世絵を出版していたとき、天明5年(1785)7月に起こったのが「遊女・綾衣(あやきぬ)と藤枝(ふじえだ)外記(げき)」の心中事件です。
藤枝外記教行(のりなり)は、徳山甲斐守貞明(御先手鉄砲頭)の8男でしたが、藤枝家に養子に入ります。徳川家光の側室・夏(順性院)は、家光の子・綱重(甲斐国甲府藩主。6代将軍・家宣の父)を産みますが、夏の弟が藤枝方孝でした。そのこともあって、藤枝家は2千石の旗本に取り立てられるのです。家宣が将軍となると、方孝の子・方教は加増を受け4千石の「大旗本」となるのでした。
藤枝家の石高4千石というのは、1石=1両とし、当時の米価で換算して1両を現在の5.5万円とすると、今なら年収2億2000万円ほどと、推定できます。
■28歳の藤枝外記は19歳の遊女に入れあげ、吉原に通った
外記が藤枝家の養子に入ったのは、その祖母が方教の娘であった縁もあるとされます。外記の屋敷は吉原に遠くない湯島にありました。外記は吉原(大菱屋久右衛門抱え)の遊女・綾衣と心中することになるのですが、綾衣のその時の年齢は19歳。外記は28歳でした。綾衣が「吉原細見」(遊女の名前などが記された吉原の総合情報誌)に登場するのが、その2年前の天明3年(1783)秋のことでした。この事から、綾衣が幼い頃に売られた禿(かぶろ)(遊女見習いの幼女)出身ではなかったことが分かります。「にわか遊女」であった訳です。
綾衣と馴染みとなった外記ですが、外記の親戚はそのことを諫めたとのこと。藤枝家の者も養子に入った外記の「不行状」に憤慨したものと思われます。しかも外記には10代後半の妻みつもおりました。妻も嫉妬に身を焦がしたかもしれません。
吉原遊郭が賑わう様子、清水晴風編『あづまの花 江戸繪部類』、国立国会図書館デジタルコレクション
■親戚は外記の吉原通いを責め、一室に閉じ込めてしまった
親戚の者が諫めただけならば、その後の心中事件はなかった可能性が高いと筆者は推測しています。悪いことに親戚らは外記を一室に閉じ込めてしまうのです。これが外記の心に火を点けたのでした。「安女郎」であった綾衣がわずか2年ほどで禿を引き連れるほどの「出世」を果たしたのは、外記が綾衣に入れ上げたからだと推測されます。そうしたこともあり、一室に閉じ込められた外記の恋情は一気に燃え盛ったのでした(養家への憤慨の心の方が多分にあったとする説もあります)。
外記は狭い一室を抜け出し、大菱屋の綾衣のもとに向かいます。そして綾衣を連れ出し、知り合いの農家(豊島郡千束村の百姓・平右衛門の家)に入り、そこで心中したのでした。天明4年(1784)、吉原は大火に襲われ廓は焼け落ちていました。大菱屋は両国の「仮屋」に移転していたのです。吉原の遊女は廓外に出るのは禁じられていましたが、仮屋であったので出入りは自由。その事も心中という悲劇に繋がったように思われます。
それにしても綾衣に外記と心中する気があったかどうか。綾衣に心中する気はなく、外記に引き出されるように外に連れ出され、ついには「無理心中」となったのではないかとの見解もあります。
■お互い納得してのことではなく、無理心中だったという説
藤枝家の人々は外記の相対死に仰天したことでしょう。外記の死をそのまま届け出ては「お家断絶」に繋がってしまうと考えた藤枝家は「死骸」を「家来・辻団右衛門」のものと偽ります。
しかし後日、そのことは露見。浅草の幸竜寺に埋葬されていた外記の死骸は堀り起こされ「再検視」となります。それにより、その死骸は外記のものとされたのです。藤枝家の者らは公儀(幕府)に対し不束(ふつつか)ということで「押込」(蟄居謹慎)となりました。これはいずれ許されるものであり、重い処分ではありません。藤枝家が6代将軍・家宣の親類だったことも考慮されたのでしょう。さて、外記と綾衣の死を憐れんだ里人は次の歌を作ったと伝わります。
「いずくんぞ君と同寝(ともね)す はた守る五千石 徒(あだ)に見る五千石 一夕の歓にしかず」
また藤枝心中事件は人々の話題となり「君と寝ようか五千石取ろか、何の五千石、君と寝よ」との端唄もできますが、天明期を代表する文人で、蔦屋重三郎とも交流し仕事をした大田南畝(なんぽ)(演・桐谷健太)は、この端唄を狂詩に訳します(大田南畝著『俗耳鼓吹』収録)。
「寧与君同寝、将守五千石、徒見五千石、不如一歓夕」(寧ろ君と寝を同じくせんや、将た五千石を守らんや、徒だ見る五千石、一歓の夕に如かず)。
太田南畝像(四方赤良は南畝の別名)、北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』、東京都立図書館蔵
藤枝家の家禄「五千石」を捨ててまで、遊女との恋愛に身を捧げた藤枝外記に人々は同情し喝采を送ったのでした。しかし、文中でも「綾衣に心中する気はなく、外記に引き出されるように外に連れ出されついには無理心中となった」と書いたように、実際には人々が称賛するような出来事ではなかった可能性もあります。
参考文献
・小野武雄『吉原・島原』(教育社、1978年)
・西沢爽「君と寝やろかとその背景」(『日本歌謡研究』21、1982)
・永井義男「江戸の醜聞愚行 第79話 旗本が遊女と心中」(『電脳くろにか』2007年6月11日)
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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(作家 濱田 浩一郎)