人材豊かな魏国の曹操、忠臣が集った蜀国の劉邦、そして呉国の孫権は…三国志の名臣たちに新たな光を当てる!

2025年5月26日(月)7時0分 文春オンライン

 中国歴史小説の第一人者・宮城谷昌光さんのライフワークともいえる名臣列伝が、ついに『 三国志名臣列伝 呉篇 』でついに完結! あらためて三国志の世界に広がる豊かな支流の景色を綴った——。





◆◆◆


 前漢の比類ない歴史家である司馬遷(しばせん)は、自分が書いた歴史書を編纂する上で、紀伝体、を発明した。


 紀は、帝王の記録で、伝は、個々の伝記である。


 長い歴史の全容を示すには、その形式がよいとおもった歴史家が多く、司馬遷の『史記』のあとにあらわれた『漢書』と『三国志』、さらに、それらより遅い成立の『後漢書』まで、その形式を襲用した。


 私としては、紀伝体の伝は、河水(黄河)あるいは江水(長江)にながれこむ支流のように想われた。どの川も、支流は本流ほどの迫力をもっていないかもしれないが、それらの景色は本流のそれに劣るとはかぎらない。そういうおもいで私は『三国志名臣列伝』の「魏篇」「蜀篇」「呉篇」を書いた。私が書いたのは小説であるが、それでも司馬遷の紀伝体をまねたことになる。


 紀にあたる『三国志』を「文藝春秋」本誌で十年以上も連載をつづけたが、


 ——書き尽くせない。


 と、おもった人物が多々あった。それほどその歴史世界は奥が深い。そこで 「オール讀物」 の誌面を借りて、名臣とおもわれる個を掘り下げさせてもらった。


曹操は明晰な知略で魏国を建国したが…


 まず想ったことは、曹操(そうそう)が建てた国である魏には、人材が豊かである、ということである。すぐれた人物を多く得た者が、最終的には勝つ、と曹操が考えていたことは、容易に想像がつく。この曹操の人材蒐めがなかったら、後漢末の董卓(とうたく)の専横からはじまる戦乱は、ずいぶん味気無いものになっていたであろう。曹操の時代からさほど離れないで正史『三国志』を書いた陳寿(ちんじゅ)は、曹操をこう評している。


「漢末に、天下は大いに乱れ、英雄豪傑が並び起った。そういうときに袁紹(えんしょう)は四州を得て、天下を虎視し、その盛強さにかなうものはいなかった。魏の太祖である曹操は、籌(はかりごと)をめぐらせ、謀計を展開して、天下を鞭撻した。戦国時代の名臣である申不害(しんふがい)や商鞅(しようおう)の法治の方法を採り、韓信(かんしん)、白起(はくき)といった名将の奇策を借り、才能のある者を官に就け、その器量の大小によって働かせた。感情をあらわにせず、計算にまかせ、旧悪を念わずに用いた。ついに天子の政治を総覧し、洪業を成し遂げられたのは、ただその明晰な智略がもっともすぐれていたからである。非常の人、超世の傑というべきであろう」


 陳寿は蜀の人として生まれ、のちに晋の人となったが、魏の創業者への評は、ずいぶん的確であるようにおもわれる。その評にあるように、曹操によって拾われたり、迎えられたりした才能は多い。ただし小説として名臣を書いてゆくうちに、曹操のくせに気づいた。


「蜀篇」の関羽(かんう)のところで書いたが、降伏した武官と文官とでは、あつかいがちがうということである。武官で要職が与えられたのは、張遼(ちょうりょう)と関羽のみで、降伏した敵将を信用しないというのが、曹操の心情的なくせであろう。


歴史において「賢臣」は評価されない!?


 曹操に敵対した呂布(りょふ)の下に張遼がいたことが、どれほど知られているか、それは問題ではなく、呂布の下に張遼にまさるともおとらない猛将がいたことは、たぶんさほど知られていない。そこが問題なのである。とにかく、高順(こうじゆん)が、その人である。


「陥陣営」


 すなわち、戦えばかならず敵の陣営を陥落させる、と高順は恐れられた。実際にそうで、呂布の命令で沛の劉備(りゅうび)を攻めたかれは、たやすく撃破している。名将といってよい。それにもかかわらず、呂布を捕斬した曹操は、高順を釈さず、殺した。もしも曹操が高順を殺さず、活用したら、高順は張遼とならんで、名臣になっていたのではないか。高順は呂布のために誠実に尽くして戦ったことはあきらかで、それだけでも名臣の資質はある。だが、主君が変節の人というべき呂布であったせいで、かれの名は歴史のすみに埋没してしまった。


 ほかにも、そういう人々はいる。


 袁紹に仕えた沮授(そじゅ)や田豊(でんほう)などがそれにあたる。ふたりは袁紹のために良策を献じ、それらの策が実行されれば、袁紹の天下になったであろうと想われたのに、袁紹はそうしなかった。とくに沮授は、官渡の戦いのあとに、捕虜となったものの、曹操には仕えず、逃亡をはかって殺された。忠臣であり名臣といってよいのに、袁紹が失敗者であるとみなされたために、沮授、田豊などの賢臣は、歴史において評価されない。私はそれらのことを想いながら三国の名臣列伝を書いた。


 かれらの主君択びは運がよかっただけなのか。いや、そうではあるまい。魏の程昱(ていいく)が兗州刺史(えんしし)の劉岱(りゅうたい)の招きをことわったことがよい例である。劉岱という人物はおもいやりの深い、まことに善良な刺史である。それを知っていながら程昱は仕官せず、のちに曹操に招かれると、ためらわず腰をあげた。程昱にかぎらず、名臣とよばれることになる人々は、かれらなりに時勢を予見し、正義の有無をみつめて行動したのである。


劉備に仕えた関羽と張飛、趙雲、諸葛亮の違い


 しかしながら、その点、劉備に早くから仕えた者たちは、忠臣であっても名臣ではないかもしれない。関羽と張飛(ちょうひ)が劉備のために天下平定の道すじを示したことはなかったろう。だが、趙雲(ちょううん)に関しては、多少、事情がちがう。かれの出身地は常山国で、冀州に属しているので、袁紹の勢力圏にはいる。それを承知で、趙雲は袁紹に従わず、幽州から南下した公孫瓚(こうそんさん)に属き、ついで劉備に付いた。


 正義を証明することを、証義、という。趙雲は劉備を証義の人とみたのではないか。正義をつらぬいてゆく者は、いつか、かならず強大な力をもつ。趙雲がみた劉備は、曹操に敗れて袁紹のもとに逃げこんだばかりで、徒手空拳であった。つまり無にちかく、その無がどのように有に転ずるのか、自分の目でみたい、というのが趙雲の心情であったろう。


 このあと、劉備は趙雲とともに南下して、劉表(りゅうひょう)に迎えられ、めずらしく落ち着いた日々のなかで、諸葛亮(しょかつりょう)を発見する。じつは有能な人物は劉表の支配地である南陽郡と南郡に多くいて、かれらは劉表をみかぎったかたちで劉備に従属して蜀までゆくことになる。無が有に転ずるとは、そういうことなのである。


魯粛だけが主の孫権に天下に本気だった


 ずいぶん昔に、三国志の世界をのぞいたとき、わからないことがいくつかあったが、そのひとつに呉の魯粛(ろしゅく)だけが劉備に親切であったということがあった。孫権(そんけん)のためになんの役にも立たぬ劉備を助ける必要などない、と毛嫌いする周瑜(しゆうゆ)の心理のほうがわかりやすかった。


 だが、三国志の世界を書く側にまわって、はじめて魯粛の器量の巨きさがわかった。ほんとうに主である孫権に天下をとらせようとしていたのは、魯粛だけであったということである。天下の三分の二をとりつつある曹操をどのように倒すか。孫権が単独で立ち向かっても勝てないとなれば、どうしても協力者が要る。その協力者は劉備しかいない。それゆえ劉備が弱小のままではこまるのである。そういう配慮ができる魯粛が病死した時点で、孫権の天下とりは終わったとみてよい。


 さてこの名臣列伝を書きはじめた時点で、「呉篇」は、陸抗(りくこう)で終わる、と決めていた。陸抗ほどすがすがしい人物は、めったにいない。かれは父の陸遜(りくそん)が孫権にいじめぬかれて死んだとわかっていながら、孫権にたいしてひとことも怨みごとをいわず、呉のために尽力した。しかも敵将の羊祜(ようこ)とは、徳をもって競った。みごとというしかない名臣である。


2025年3月吉日



宮城谷昌光(みやぎたに・まさみつ)


1945年、愛知県蒲郡市に生まれる。早稲田大学文学部卒。出版社勤務のかたわら立原正秋に師事、創作をはじめる。その後、帰郷。長い空白を経て、「王家の風日」を完成。91年、「天空の舟」で新田次郎文学賞。同年、「夏姫春秋」で直木賞。93年度、「重耳」で芸術選奨文部大臣賞。99年度、司馬遼太郎賞。2001、「子産」で吉川英治文学賞。04年、菊池寛賞。06年、紫綬褒章。15年度、「劉邦」で毎日芸術賞。16年、旭日小綬章。主な著書に「孟嘗君」「晏子」「太公望」「楽毅」「 孔丘 」「公孫龍」「張良」「諸葛亮」「三国志名臣列伝」シリーズ、十二年の歳月をかけた「 三国志 」全十二巻などがある。



(宮城谷 昌光/文藝出版局)

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